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rexus別館

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hazy sphere

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 彼女はその身に大空を抱いていた。
 様々な人々が足早に行き交う雑踏の中。耳につくノイズを振り払うように足を止めて、そして空を見上げた瞬間、俺は思わず息を呑んでしまった。
 そこに見つけたのは、教会の屋根の上に立つジェンドの姿。十字架に手をかけ、どこまでも広がる青空をぼんやりと見つめていた。
 その景色がどうして俺の心を揺さぶったのだろう。
 すぐには解らなかった。
 そこにある筈の答えを求めて必死に目を凝らしてみる。だけれど、俺の体はあっという間に人混みに呑まれて、幾度と無くぶつかってくる人の肩は先に進むようにと促していた。
 仕方なしにゆっくりと足を動かし始める。出来る限り彼女の姿をとらえながら、俺の心の中には、いつまでも虚ろな紅の瞳が映っていた。

 その日、彼女は約束の時間に帰ってはこなかった。
 どうしてという疑問と、僅かばかりの苛立ちが胸に立ちこめていた。集団で行動している以上、その中の一人が勝手な行動をとってしまえば、皆が迷惑を被ることになるのだ。長い間一緒に旅を続けて、彼女とてそれが解らないわけでも無いだろうに。またしても昔の悪い癖がぶり返してきたというのだろうか。
 仕方なしに十六夜だけ夕食をとらせて、いつも通りの時間に寝かしつけてやった。俺はと言えば、今にも鳴り出しそうな腹をさすりながら、窓の傍の椅子に座って、空に浮かぶ月をじっと見つめていた。

 いつもの俺ならば「何故」と思う前に苛立っていたに違いない。
 だけれど、今日に限ってはそんな気分にはなれなかった。きっと、昼間に見た虚ろな瞳がそうさせていたのだろう。
「あれ……何だったんだろう」
 そう呟いた瞬間、不意にドアノブを回す音が響き渡った。
 ため息を一つだけ吐いて、それからドアの方に顔を向ける。薄闇の中で、彼女の紫色の髪の毛がくっきりと浮かび上がっていた。
「何してたんだよ」
 少し苛立った風に問いかける俺。
 同じような調子で「別に」と答える彼女。
 二人の間に気まずい沈黙が訪れる。
 いや、気まずいと感じていたのは俺だけなのかもしれない。彼女にとって、俺がいようがいまいが大差はないだろうから。そう考えると、少しだけ苛立ちがぶり返してきた。
 椅子にあたるように勢いよく立ち上がる。それから、しまった、と思って十六夜の方に視線を向けた。幸い、十六夜は何事もなかったように、穏やかな顔をして眠っていた。
 そのまま彼女の方に体を向けて、今度こそ細めた目で睨み付けてやった。
「何してたんだって訊いてるんだ」
 もう一度だけ問いかけてみる。先ほどより声を潜めて、その代わりに野太く低い声を絞り出しながら。
「関係ないだろ」
 そう言って、彼女はプイと顔を背けてしまった。
 薄闇の中で彼女の体だけが月光に照らされている。いつもより小さく見えるそれは、先ほどからピクリとも動きはしない。右腕で顔を覆って、まるで俺の顔など見たくはないと言わんばかりだ。その小さな体は、何故だか、俺に昼間の虚ろな瞳を思い起こさせていた。
 凶暴なダークエルフとしての彼女の中に潜むもう一人の彼女ーーそれを垣間見ている気がして、だから、俺は心から怒ることが出来なかったのだと思う。自分でも甘いと思うけれど、彼女なりに、何かのサインを出しているような気がしていた。
「昼間、何してたんだ」
 隣のベッドに座って、唐突に問いかけてみた。
 出来る限り責めるような口調にならないように。喧嘩腰にならないように。俺自身、その答えを何故だか知りたくて仕方がなかったのだ。 
 彼女の体がゆっくりと俺の方に傾いてくる。もう一本の手でも顔を覆い、気怠そうにため息を吐き捨てた。
「……剣」
 微かな声が空気を震わせる。
「剣を鍛えに行ってただけだ。随分刃が傷んでたからな。貴様には関係のない事だ」
「関係あるさ。お前はほっとくと何しでかすか解らんないからな」
 大げさに呆れたふりをしてみせる。彼女は顔を覆っていた手をだらりと垂らすと、俺の顔をじっと見つめてきた。
「ふん……勝手に言ってろ」
 紅の瞳には昼間のような虚ろさなど微塵も残ってはいなかった。彼女らしい、キツすぎるほどの視線がそこにはあった。だけれど、決して険しい顔つきをしてはいなかったのだ。
「ああ、そうさせて貰うよ」

「ジェン……」
 名前を呼ぼうとして言葉を飲み込んだ。
 虚ろな瞳の理由、もしかしたら解ったかもしれない。芯のある視線を、いつもより少しだけ小さく見える彼女を見つめながら、そんな風に思っていた。
 もしもそれが正しいなら、それは俺の中に留めておいた方がいい。きっとそうだと思う。
 そしてもう一つ。俺たちは、俺が思っている以上に「仲間らしく」なれているのかもしれなかった。



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